Interviewer

栗村修(Osamu Kurimura)
元自転車プロ選手。引退後はチームコーチ、監督、レース解説者、ツアー・オブ・ジャパンの大会ディレクターを務めるなど多方面に渡って活躍。日本の自転車界を最もよく知る伝道師。
1971年、神奈川県生まれ。

Guest.02

増田成幸選手(Nariyuki Masuda)
大学時代、ジャパンカップオープンレースの好走が認められ、チームミヤタに加入。
チーム解散後はエキップアサダ、チームNIPPO、宇都宮ブリッツェン、キャノンデールプロサイクリング(イタリア)で走り、2014年に宇都宮ブリッツェンに再加入。
宮城県出身。1983年生まれ。

Guest.03

阿部嵩之選手(Takayuki Abe)
小学生~大学生までクロスカントリースキーに打ち込み、国内有数の選手へ成長。ケガのリハビリで始めた自転車でも頭角を現し、プロの道へ。シマノレーシング在籍中に渡欧し、レースを転戦。2014年に宇都宮ブリッツェンに加入。
北海道出身。1986年生まれ。

自転車は身近なもの
気になるのはサッカーや他のスポーツ

栗村:いまサッカーをやっている人は、たいていJリーグ(1993年開幕)が大きなきっかけになっています。では、いまロードレースをやっている人は、どういう経緯で「自転車を始めよう」と思ったのでしょうか。ふたりはどうだった?

増田:小さいころ、自転車競技を言われても競輪しか思い浮かばなかったです。ロードレースは、中学生のときにフジテレビのツール・ド・フランス総集編を見て初めて知りました。長い距離を走って大きい山を越え、風の強い日も雨の日も休まない、世の中にこんなスポーツがあるんだ、と。ただちに、「よし僕もやろう」となったわけではありませんが、記憶は強く残っています。

栗村:当時、何かスポーツはやっていた?

増田:最初から辿っていくと、幼稚園で水泳を始め、並行して野球もやっていました。従妹の野球好きのオジサンに教え込まれ、幼稚園児ながらバットのスイングはかなり仕上がっていました。小学校に入っても水泳と野球です。
 
ただ、小学校3年生のときにサッカーのJリーグが開幕して気持ちが一転。「サッカーカッコいいー」、「サッカーやろう!」と。今、振り返るとメディアの力ってすごいです。大きなインパクトあって、それが子供心を刺激しました。

栗村修さん

栗村:Jリーグは巨大なシステムとともに大体的に始まって華やかでしたね。サッカーはいつまで続けていたの?

増田:中学校に入るまでです。中学校の3年間は、テニスが趣味だった父親の影響もあって軟式テニス部に入りました。その後、高校ではまた違ったことがやりたいと、レーシングカートやヨットを考えていました。でも、問題はお金がかかってしまうこと。高校は公立ではなく私立に入ったので、両親に遠慮してやめました。
 
そこで、では何をやろうかというときに、「自転車やりたいな」と。
 
子供のころは、いまと時代が違って外に放牧されていたようなものだったので、親の目を離れて自転車をこいだり、腕を骨折しても乗っていたりしました。小学校~中学校時代は、自転車は移動の手段でもあったし、遊びの手段でもありました。ママチャリでコーナーを攻めて、このスピードなら曲がり切れるぞ、とか自分への挑戦みたいなことをやっていました。もともと自転車少年だったんです。
 
結果、“自転車を乗り回したい⇒できることならロードレーサーを”と貯めていたお年玉を使って、パナソニックのアルミフレームのロードレーサーを買いました。住んでいた地域の自転車ショップで16万円でした。

栗村:高校時代がスタートラインだったんだね。
アベタカ選手(阿部選手)はいつごろからロードレースを知っていました?

阿部嵩之選手

阿部:小学生1年か2年生のときに「ツール・ド・北海道」を観たのが最初です。自宅から1~2分の道路が偶然コースの一部でした。色とりどりのジャージ姿の密集した集団が、シャーという走行音とともに風を切っていった迫力はいまも忘れられないです。子供心に“自転車=カッコいい”と刷り込みされました。

栗村:競技を知ったのが自転車レースだったというのは珍しい。ここ数年レースの数は増えているので、アベタカ少年のように生のレースを観て影響を受けた子は多くなるのかもしれないね。その後はどんな風に過ごしていたの?

阿部:「ロードバイク乗りたい」と両親に頼むも、「大人になったら」と軽く流されてしまい、その後、Jリーグが始まってサッカーに夢中に。子供って単純だから。

増田:そういえばJリーグのロゴが入った自転車がすごい欲しかったなぁ。

阿部:カズダンスを真似たりしましたよね。

栗村:(笑)。北海道の場合、冬場のサッカー環境はどういうものなの?

阿部:所属していた少年団は体育館で練習していました。限られた広さのインドアなのでフットサル的にはなりますが、ルールはサッカーでした。ただ、僕はサッカーがあまり長続きせず、小学校4年生でやめてしまいました。自分が向いてないとわかってきたんです。トラップが下手クソでボールの勢いをうまく止められないし、下級生のほうが上手だし……。親も気づいていましたね。
 
そんな折、先生から「アベタカは脚が速いから陸上に来ないか」と誘われて、サッカーから陸上にスイッチしました。種目は短距離系で、100mと200mと幅跳び。地区大会では優勝もしました。中学時代は身体能力の差が大きくなってしまって、成績からは疎遠になってしまいましたケド。

栗村:先生に声かけてもらって良かったね。人間ってスポーツでも勉強でも何かしらの特性をもっているし、自分に対してポジティブな言葉って惹かれるよね。
 
ほかにスポーツ経験は? 北海道ならウインタースポーツも盛んでは。

阿部:小学校にクロスカントリースキーの道具があったので一緒にやっていました。夏場はサッカーや陸上、冬場はスキーという感じです。
 
当時、だいたいの小学校にアルペンスキーの授業がありましたが、クロスカントリーとアルペンのどちらを選ぶかは、用具を用意できるかどうかが大きい気がします。スケートは自宅からリンクまでクルマで2時間かかってしまうので、僕は必然的にクロスカントリーという流れでした。

栗村:クロスカントリーは長く続けていた?

阿部:中学生のときに隣町に引っ越したら、クロスカントリーの環境がすごくよく、3年間まじめに打ち込みました。高校進学の際は、スキー部があるのを条件に、将来、自転車関連の仕事(設計士)に就きたかったので、小樽の工業高校へ入学しました。
 
クロスカントリーは、道内でそれなりに認められるレベルまで向上して、最高位は3年生のインターハイの7番です。ちょうど大学のスキー部の監督から推薦の話も舞い込んできたので、卒業後にすぐ働くのをやめて、大学に進む決心をしました。クロスカントリーが俄然おもしろくなってしまったんです。

栗村:先ほどのサッカーから陸上への切り替えもそうだけど、高校時代にもアベタカのことを気にかけてくれた人がいたんだね。

阿部:そうですね。

紆余曲折を経て
決意を固めた大学時代

栗村:次にロードバイクに乗り始めたころ、どんな気持ちを抱いていたか聞かせてください。増田選手は最初からプロになりたいという願望はあった?

増田:プロ選手というのは心のどこかにありました。小さいころから将来の夢は、野球選手やサッカー選手、F1ドライバーとか、カッコいいものばかり思い描いていたので。

栗村:どうすればツール・ド・フランスに出場できるかとか、お金はいくらぐらい入るかとかは?

増田:そういうのは、ぜんぜんわかってなかったです(笑)。
 
単純に、自転車で風を切る感覚やコーナーを攻めてワクワクするのが楽しかった。「もっと自転車で人と競ってみたい」というのが根底にあったから、レースも出たくてしょうがなかったです。高校には自転車部がなかったため、自分が作りたいと学校に申し出ましたが、危険という理由でダメでした。

栗村:自転車レースやイベントの経験は?

増田:センチュリーライドのハーフや、クリテリウムに出ました。インターネットで全国各地のレース情報は収集できましたが、遠くまでいってレースに出るというのはなかったです。
 
あと、高校3年生のとき、地元・宮城県の高校体育連盟に電話して、「高校総体に出場させてください」とお願いしました。そもそも自転車部がないので無茶な話だったのですが、特例で認めてもらえたのはうれしかったです。
 
レース当日はパールイズミの真っ白いジャージに黒のレーパン姿で、ゼッケンは手作り。
黒マジックでちゃんと“増田”と書きました。コースは4kmを20周回する80kmで、最後の一周で落車して6位か8位でフィニッシュしました。東北大会に進める成績でしたが、特例の出場だったので、それは叶いませんでした。

栗村:事務局に電話して大会参戦を直談判するって、すごい熱意だね。ゴリゴリ行くね(笑)。

増田:卒業後はロケットや飛行機のエンジニアになりたかったので航空宇宙工学のある日本大学へ。
この時期は、勉強して、いい会社に入って、というのがなんとなくあったので実家にロードバイクは置いたままでした。ただ、大学で何か熱くなれるものがほしくて人力飛行機の世界に入り、そこでパイロットに選ばれたことでロードバイク熱が再燃しました。練習の一環でエンデューロやヒルクライムに出ると、やっぱり楽しかった。
 
本気でプロ選手を意識したのもこのころで、大学3年生からとにかくトレーニングを積み、それで無理だったら諦める、と決めて。

増田成幸選手

栗村:そのころ、プロのイメージと言えばどういうものだった?

増田:ブリヂストンアンカーやシマノレーシングがあこがれの存在でした。自転車雑誌に付いていた付録のDVDを見て、鈴木真理選手(現:宇都宮ブリッツェン。増田選手のチームメイト)や狩野智也選手(現:群馬グリフィン)、野寺秀徳選手(現:シマノレーシング監督)が他選手をブッチ切って走る姿がカッコよかった。

栗村:日本大学には国内屈指の自転車部があって、ここに入部しないでプロを目指すというのも変わった経歴だよね。

増田:自転車部はキャンパスが違うので現実的に難しかったです。クラブチームの一員になればレース会場で会えますしね。
 
実業団登録はベルエキップさん(宮城県の自転車ショップ)で行いました。トレーニングは千葉県のズノウイーストさん、さらにバイクショップスペースさんの練習会にも混ぜていただきました。スペースさんの練習会には鈴木真理選手にもよく来ていて、一緒に写メ撮ってもらいました(笑)。

栗村:ところで、アベタカ選手はなかなかロードバイクの話が出てこないけれど、触れたのはいつごろ?

阿部:高校生時代の下宿先です。パナレーサーのダブルレバー変速のロードバイクが置いてあって、通学に使わせてもらいました。自分で買ったのは大学に入ってからで、ブリヂストンアンカーのカーボンバックのフレームを手に入れました。ただ、ロードバイクはあくまでも楽しむ程度。純粋に趣味でした。大学1年生のとき、札幌に住む弟の知人から「一緒に自転車(レース)やりませんか」と誘われましたけど、「考えておくね」というぐらい。本業はクロスカントリースキーで、インカレで10位前後だったことから卒業後も企業チームや自衛隊で続けたいと考えていました。

栗村:と言っても、アベタカ選手は大学時代に2006年の「ツール・ド・北海道」を北海道地域選抜メンバーのひとりとして走っているよね。

阿部:2年生の夏、クロカンのトレーニングの一環でランニングしている最中に、ひざを壊しました。それで自転車ならまだペダルを回せる(膝の負担が少ない)とリハビリしていたら、意外とすぐに「あれ、自転車っておもしろいぞ。スキーより楽しい」と。競技の実績&成績から考えれば当然クロスカントリースキーなのですが、ここで子供のころ観たレースの記憶も強く蘇って、自転車の世界に引き込まれていきました。

BLITZENの文字

阿部嵩之選手

栗村:生計をどう立てるとか、どこかのチームに入りたいというのはありました?

阿部:2回目(大学3年生)の「ツール・ド・北海道」に出場したころ、将来はプロ選手としてやりたいと考えました。僕も増田選手と同じようにブリヂストンアンカーやシマノレーシングにあこがれました。ヨーロッパを主戦場にしていた三船雅彦さん(現:自転車インストラクター、解説者)の存在も知っていましたが、まずは国内チームを、と。
 
自転車選手の収入は知りませんでした。当時の僕にとって、自転車は単にキラキラと輝いていたものでした(笑)。

栗村:こうして話を聞いてみると、ふたりが子供時代に自転車(ロードレース)を知ってから、実にさまざまな紆余曲折を経て、選手への道を歩んできたのがわかりました。自転車界への参入の仕方にはいろんな形がありますが、スポーツの世界で一般的に多い“小さいころから競技を始める→名門校を出る→プロになる”ではなかったわけです。それでいて、いまトップ選手として活躍しているのは、個々の努力の積み重ねがあったからこそだと思います。
 
次の回では、ふたりがプロ選手として成長していく過程を追っていきます。ぜひ、お楽しみに。

Interviewed and Photo by Pearl Izumi